「ベンゲットの桜 」より
なぜベンゲット州なのか
くろしお農業振興協同組合の創業者である、吉川浩史の半生とフィリピン ベンゲット州との絆を紡ぐ50年。そしてその先へ。
第1回:一冊の本から始まった夢
私の物語は、一冊の古びた本から始まった。
昭和19年、私は高知市で生を受けた。しかし、生後まもなく空襲で家を焼かれ、命からがら祖母の暮らす須崎市へと逃れた。戦後の混乱期、誰もが今日を生きることに精一杯だった時代、私の心は常に「外の世界」へと向いていた。中学生になる頃には、漠然と「いつか広いブラジルに渡って農業をしてみたい」という、少年らしい壮大な夢を抱くようになっていた。
その夢を現実的な「手段」に変えたのが、中学2年生の冬、父の書棚で偶然見つけた『椎茸栽培』という本だった。当時の私にとって、それは単なる農業の解説書ではなく、未来への切符のように見えた。
「これを山で育てれば、自分の力で学費を稼げるかもしれない」
私はすぐに裏山で椎茸栽培を始めた。独学での挑戦だったが、湿った空気の中で芽吹く椎茸の生命力に、私は言葉にできない感動を覚えた。高校生になると、栽培規模はさらに大きくなった。冬の朝、まだ辺りが暗い時間に起床し、冷たい空気の中、背負い籠いっぱいの椎茸を詰めて早朝の列車に乗り込む。高知市の市場へ向かう車中、ガタゴトと揺られながら、私は自分の育てた産物が現金に変わる喜びと、それによって切り拓かれる未来を確信していた。
そんなある日のことだ。市場での出荷を終えた私は、ふらりと一軒の書店に立ち寄った。そこで私の運命を決定づける一冊の本に出会う。東京農業大学の杉野忠夫教授が著した『海外拓殖秘史』である。
ページをめくる手が震えた。そこには、かつて海外へ渡り、不毛の地を切り拓いた先人たちの血の滲むような記録が記されていた。ブラジル、パラグアイ、そして東南アジア。日本を飛び出し、異国の土に挑んだ男たちの姿に、私は自分の将来を重ね合わせた。「この著者に会いたい。この人のもとで学びたい」。その一心で、私は東京農業大学への進学を決意した。
しかし、当時の私にとって東京の大学への進学は経済的に高いハードルだった。私は思い切って、面識もない杉野教授に手紙を書いた。「私は高知で椎茸を育て、自分の力で大学へ行こうとしている高校生です。どうしても先生の教えを受けたいのです」。
驚いたことに、高名な教授から返信が届いた。そこから5〜6回、私たちは文通を重ねた。教授は、見ず知らずの田舎の高校生に対し、実の息子に接するように温かい励ましの言葉を送り続けてくれた。
受験を目前に控えた冬、私は初めて世田谷にある杉野教授の研究室を訪ねた。緊張でガチガチになっていた私を、教授は満面の笑みで迎え入れた。そして、たまたま部屋にいた上級生たちに向かって、こう言ったのである。
「おい、紹介しよう。来春、入学してくる新入生の吉川君だ」
まだ合格発表どころか、試験すら受けていない私を、教授はすでに「門下生」として受け入れてくれていた。この一言が、どれほど私の勇気になったか計り知れない。私はこの時、心に誓った。「この先生の名を汚さぬよう、生涯をかけて海外開発の道を進もう」と。
昭和38年、私は念願通り東京農業大学に入学した。杉野教授との出会い、そして椎茸栽培という技術。この二つが揃ったとき、私の視線の先には、まだ見ぬフィリピンの険しい山々が霞んで見えていたのかもしれない。
第2回:恩師の遺志と青年海外協力隊への道
これまで培ってきた私たちの経験や実績をもとに、数々の素晴らしいお客様にご愛顧いただいております。東京農業大学に入学した私は、杉野忠夫教授という「神様」のような存在に接することとなった 。先生は厳格な教育者である一方、よく笑い、冗談を絶やさない「普通の人間」としての温かみも持ち合わせていた 。私は先生の勧めで、海外移住を見据えて空手部に入部し、4年間で黒帯二段を取得 。同時に海外移住研究部にも所属し、ブラジルへの夢を抱き続けていた 。
大学生活の集大成である卒業論文のテーマは「マッシュルームがなぜ日本に導入されたか」というものだった 。日本各地の関係者を訪ね歩き、書き上げた論文は、関係者から「ぜひ手元に置きたい」と要望されるほどの出来栄えとなった 。しかし、印刷にこだわったあまり、提出期限を1週間過ぎてしまうという失態を演じた 。
本来なら選考対象外となるはずだったが、学科の先生方は粋な計らいをしてくれた 。前年に急逝された杉野教授の名を冠した「杉野賞」を創設し、私に授けてくれたのである 。副賞の腕時計を手に、私は天国の恩師に報いたいと強く願った 。
その後、沖縄でのキノコ栽培調査を経て、運命の歯車が大きく動き出す 。1966年11月末、大学の教授を訪ねると、「フィリピンから椎茸栽培の隊員要請が来ているが、応募しないか」との打診があった 。私は即座に「応募する」と答え、昭和42年(1967年)3月31日、第1号の椎茸栽培隊員としてフィリピンへ旅立った 。
現地に到着して驚いたのは、フィリピン人の抱く激しい反日感情だった 。当時の人口の約16%にあたる110万人が犠牲になった戦争の傷跡は、想像以上に深かったのである 。それでも私は「土佐人気質」の楽観さを失わず、任地であるベンゲット州の山々へ向かった 。
着任間もない5月、標高2,300mのダタ山で、私はついに「椎茸らしきもの」を発見する 。採取した胞子紋を日本の試験場へ送ると、「間違いなく椎茸である。貴方がフィリピンの椎茸の発見者だ」という返信が届いた 。この発見は、単なる技術的な成果以上の意味を持っていた。現地の有力者であるシナイ・ハマダ弁護士から「茸開発計画」の立案を命じられ、それが後にマルコス大統領直々の予算承認へと繋がっていくのである 。
一方で、現地の作業員から突きつけられた「俺の親父は日本軍に殺された」という問いは、私の胸に深く突き刺さった 。私は「過去は変えられないが、二度と不幸な戦争を起こさぬよう、ファーストネームで呼び合える深い交流をしよう」と答えるのが精一杯だった 。この言葉が、その後の私の人生を決定づける「慰霊と交流」の誓いとなったのである 。
第3回:バターンの衝撃と不戦の誓い
1967年4月末、研修を終えて任地へ向かう途中のことだった 。ターラック州を走る国道の脇に、巨大な三角形の記念碑が立っていた 。それが、悪名高い「バターンの死の行進」の慰霊碑だった 。
日本軍が約8万人の捕虜や一般人を酷暑の中、強制的に行進させ、1万7千人もの命が奪われた惨劇 。その事実を突きつけられた時、私は激しい衝撃を受けた 。当時、日本国内では戦争の詳細は伏せられ、私たちはフィリピンの真実をほとんど知らずに赴任していたのである 。
「フィリピンの人々に、何らかの形で慰霊の形を示さなければならない」
この決意は、私の単なる「一隊員」としての活動を超えたものになった 。茸の開発も、現地の人々との交流も、すべてはその「慰霊」という目的のための手段であるべきだと考えるようになった 。
活動を支えてくれたのは、日系人の「親父さん」ことシナイ・ハマダ弁護士だった 。彼は、マルコス大統領が後に1位、彼が2位という驚異的な成績で弁護士試験に合格したほどの秀才であり、地元の有力者だった 。ハマダ氏は、日本人の血を引く者として戦後の苦難を耐え抜いてきた誇りを持っており、私たち協力隊員を「先進国・日本の象徴」として温かく迎え入れてくれた 。
ハマダ氏の助けを借りて書き上げた「茸開発計画」は、1968年2月にマルコス大統領の承認を受け、莫大な予算が投じられた 。私は大型自動車の免許を持っていたため、自らMPDAの大型トラックを運転し、川から砂や砂利を運び、大工を雇って栽培棟を完成させた 。
ある時、村の祭り「カニャオ」に招待された 。そこで振る舞われたのは、水牛の腸を煮込んだ、強烈な糞の臭いがするスープだった 。村人たちは、私たちがこれを飲み干すかどうかを固唾を飲んで見守っていた 。アメリカの平和部隊(ピースコー)はこのスープを捨ててしまい、二度と村に入れてもらえなかったという 。
私は意を決して一気に飲み干した 。その瞬間、村人たちは安堵の息を漏らし、私たちとの間に確かな「友情」が芽生えたのを感じた 。言葉の壁や過去の遺恨を超えて、共に笑い、共に食卓を囲むこと。それこそが「普通の日本人」としての私にできる、最大の慰霊活動であると確信した瞬間だった 。
第4回:厚木「わらぶきの家」の25年
1969年3月、2年間の任期を終えた私は日本へ帰国した 。初代事務局長に「今後どうするか」と問われ、私は「得られた経験を次の応募者たちに伝えたい」と答えた 。それが縁で、私は協力隊OBとして初めて事務局職員として採用されることになった 。
東京での勤務が始まったが、私の心には常に「地域開発」の火が灯っていた 。都会の喧騒の中で土に触れる場を求め、1972年、神奈川県厚木市に関口にある築100年以上の「わらぶきの家」を借り受けた 。
「都会の人々には土に触れる機会を、農家には新しい活力を」
そんな思いで始めたこの活動は、いつしか私の「私設協力隊ハウス」のようになっていった 。1年間の稲作を作業化し、田植えや餅つきには200人もの人々が集まった 。中でも圧巻だったのは、ヘリコプターを飛ばして苗を空中から放り投げる「空中田植え」だ 。その珍しさはNHKでも20分にわたって放映され、大きな話題となった 。
この「わらぶきの家」には、実に多彩な人々が集った。建具職人の中村清さんは、家族で近くに引っ越してくるほど活動に共鳴し、職人魂で私を支えてくれた恩人である 。後に私がタンザニアへ赴任した際、彼は12枚の畳と餅つき用の臼・杵を船便で送ってくれた 。現地の自宅に畳の応接間を作ったことで、病気の隊員の世話や宴会の場として重宝され、「吉川の畳」は語り草となった 。
また、70年安保で名を馳せた藤本敏夫さんも、刑期を終えた後に「わらぶきの家」を訪ねてきた 。私たちはすぐに意気投合し、彼は妻の加藤登紀子さんと共に、何度も餅つきに参加してくれた 。彼らのような「志」を持った人々との交流は、私の視野を大きく広げてくれた 。
「わらぶきの家」で寝泊まりした学生は25年間で累計60名にのぼり、そのうち30名が協力隊員として世界へ羽ばたいていった 。私にとって厚木の活動は、単なる週末の趣味ではなく、日本国内における「地域開発」の実践であり、次世代の若者を育てる揺籃の地でもあったのである 。1997年、道路計画により返還するまでの25年間、そこには確かに「世界の中心」としての時間が流れていた 。
第5回:高知県とベンゲット州、魂の姉妹交流
昭和49年(1974年)、私は「高知県青年の船」の講師として、懐かしのフィリピンを訪れることになった 。企画段階から参加した私は、船側の「病気が怖い」という反対を押し切り、450人の団員をベンゲット州の山奥まで連れて行くという大胆な行程を提案した 。
「船を降り、現地の食を採り、人々と触れ合ってこそ本当の交流だ」
私の案は採用され、団員たちは故障して止まったバスの車窓から現地の子供たちと笑い合い、バギオの冷涼な空気を肌で感じた 。この強引ともいえる旅が、思わぬ展開を呼び込む 。現地で再会したシナイ・ハマダ氏から、「毎年来るのなら、高知県とベンゲット州で姉妹交流を結ばないか」という歴史的な提案を受けたのである 。
帰国後、私は高知県知事や議会への働きかけに奔走した 。当時、日本の都道府県が開発途上国の州と姉妹提携を結ぶなど前代未聞のことであり、周囲からは「なぜあえて途上国と?」という疑問の声も上がった 。しかし私は、かつてバターンの地で誓った「慰霊と不戦」の思いを、この提携に託したのである 。
1975年7月27日、ベンゲット州庁舎の大講堂にて、溝渕増巳知事とベン・パレスピス州知事が協定書に署名した 。450人の団員が見守る中での締結式は、日比両国の歴史に新たな1ページを刻んだ 。
具体的な交流の柱として、私は二つの案を提示した 。一つは「官官交流」としてベンゲット州の職員を高知で受け入れること 。もう一つは「民民交流」として、ベンゲットの青年農業者が高知の農家で働きながら学ぶ「農民交流案」である 。
しかし、現実は甘くなかった 。行政が動く「官官交流」は翌年から順調に始まったが、予算も受け皿もない「民民交流」は、その後22年もの間、日の目を見ることができなかったのである 。それでも私は諦めなかった。いつか必ず、ベンゲットの若者たちを高知の土に迎え入れ、共に汗を流す日が来ることを信じて、私は次の任地であるタンザニアへと向かったのである 。
第6回:タンザニアの悲劇と救世主・熊野医師
1982年、私はタンザニアの協力隊駐在員として赴任した 。広大な国土に散らばる70名の隊員たちの安全を守ることは、並大抵の激務ではなかった 。当時、タンザニアは病気や怪我に悩まされる隊員が多く、私は大使館に医務官の派遣を強く要望した 。
そこで赴任してきたのが、山形県米沢市出身の熊野仁昌医師だった 。熊野先生は家族を伴い、過酷な環境下で隊員たちの「命の防波堤」となってくれた 。ある隊員が致命的なマラリアに罹った際、先生は「これが最後の特効薬です。効かなければ命はありません」と宣告しながらも、見事にその命を救い出してくれたこともある 。
しかし、1985年11月21日、忘れもしない悲劇が起きた 。キリマンジャロの麓で、隊員6名が乗るワゴン車が大型バスと衝突し、全員が死亡するという未曾有の大事故が発生したのである 。
一報を受けた私は、頭の中が真っ白になった 。混乱する事務所、ひっきりなしにかかってくるマスコミからの電話に、「邪魔をするな!」と怒鳴り散らしたこともあった 。事故現場のモシまでは500km 。熊野先生は直ちに現場へ急行し、遺体の確認から死亡診断書の作成まで、凄惨な現場で不眠不休の対応を続けてくれた 。
遺族たちが日本から駆けつけた際、葬儀場で瞬間的に降った大雨は、まるで亡くなった若者たちを悼む「涙雨」のようだった 。私は火葬を担当し、積み上げた丸太の上で棺を焼いた 。骨を拾いながら、なぜ志半ばで彼らが死なねばならなかったのか、悔しさで胸が張り裂けそうだった 。
その後、遺族たちが結成した「青遺海の会」は、全国の遺族を巡回慰問する活動を続けた 。高知の私の自宅を訪ねてくれた時の彼らの寂しげな、しかし力強い眼差しを私は生涯忘れることはない 。この事故は、私に「命」の重さと、人を支えることの厳しさを、あまりにも残酷な形で教えてくれたのである。
第7回:50歳での退職と「清水の舞台」からの帰郷
1994年、フィリピン事務所次長としての勤務を終えた私は、大きな決断を下した 。定年まで10年を残し、50歳でJICAを退職し、高知へ帰ることを決めたのである 。
「自分のライフワークである地域開発は、巨大な組織の中ではなく、自分の身の丈に合う場所でやり遂げたい」
収入の確約も保証もない 。まさに「清水の舞台から飛び降りる」気持ちだった 。家族には大きな心配をかけたが、80歳を超えた両親の世話をしたいという長男としての思いも重なり、私は24年間の東京生活にピリオドを打った 。
帰郷後、思いも寄らぬ形で「地域開発」の機会が訪れた 。当時の須崎市では市長のリコール運動が起きており、後継者が見当たらないという事態になっていたのである 。私は「市政も地域開発の一つだ」と考え、市長選に立候補し、無投票で当選した 。
わずか8ヶ月の任期だったが、その選挙運動中に出会った一人の農家の言葉が、22年間眠っていた私の情熱に火をつけた 。
「吉川さん、外国と縁があるそうだが、人手不足で困っている我々のために農業研修生を呼んでくれないか」
市長を退任し、時間ができた私に、その農家・岡田さんは再び催促してきた 。私は「本当にやる気があるなら、まず現地を見よう」と応じた 。1997年2月、農協職員や農家ら16名と共に、私は懐かしのベンゲット州へと飛んだ 。
かつての任地は、私の訪問を熱烈に歓迎してくれた 。モリンタス州知事に計画を話すと、「ぜひ青年農業者を派遣しよう」と即答してくれた 。派遣窓口を引き受けてくれたクラリタ・プルデンシオ観光課長の尽力がなければ、この事業のスタートはなかっただろう 。
1997年11月1日、ついに第1期生15名が高知の土を踏んだ 。姉妹交流協定から22年、私はようやくベンゲットの若者たちに「普通の日本人」の姿を見せる機会を得たのである 。
第8回:農民交流の絆と松浦組合長の情熱
1997年に始まった農業研修生事業を、日本側で強力に支えてくれたのが、JA土佐くろしおの松浦組合長だった 。
当時、研修生の受け入れには慎重な声もあったが、松浦組合長は「組合員農家を助けるためなら」と、多額の資金を投じて宿泊棟を建設し、専門の課まで創設してくれた 。松浦さんは、実務が忙しい中、毎朝晩必ず宿舎を訪ね、研修生一人ひとりの健康状態を確認するのが日課だった 。休日には自らハンドルを握り、彼らを動物園や観光地へ連れて行くなど、実の息子や娘のように接してくれたのである 。
しかし、事業は順風満帆ではなかった 。第1期生のクリスマス時期、門限を巡って研修生たちと大論争になったことがある 。彼らの「客人を泊めるのは最高の美徳」という文化と、日本の「規則」の衝突だった 。私は一晩中彼らと語り合い、時には「研修とは何か」という終わりのない議論を数カ月も続けた 。
ある女性研修生は「こんなの研修じゃない」と泣いて訴えたが、数年後、彼女は「この事業はベンゲットになくてはならない大切なものだ」と180度考えを変え、現在は州最大の推進者となってくれている 。
2003年、農協内から「不公平だ」というクレームが出て受け入れが中止されそうになった時も、私は諦めなかった 。受け入れ農家と共に「くろしお農業振興協同組合」を設立し、民間の力で事業を引き継いだのである 。
この27年間で、受け入れた実習生は累計約850名を超えた 。彼らが送金する資金は年間1億円以上にのぼり、ベンゲットの村々に自宅が建ち、弟妹が学校へ通えるようになった 。しかし、それ以上に価値があるのは、彼らが日本の農家と「ファーストネーム」で呼び合い、家族のような絆を築いたことだ 。
「吉川さん、私の子供にあなたの名前をつけたよ」
そう報告してくれる帰国生もいる 。かつて反日感情が渦巻いたベンゲットの空の下で、今では日本語の挨拶と、日本への感謝の言葉が響いている 。それは、地道な交流が戦争の憎しみを乗り越えた、何よりの証拠だった。
第9回:高円宮様と高知の夜、そして日系人の願い
2002年、私は思いもよらぬ大役を仰せつかった 。高円宮憲仁親王殿下の写真展「素晴らしい地球」高知展の実行委員長である 。
きっかけは、タンザニア時代にお世話になった森英真住職との縁だった 。当時、病気が絶えなかった隊員たちのために住職にお祓いをお願いしたところ、不思議と怪我が減少したという深い縁がある 。名もなき須崎の住人が皇族行事の責任者を務めるのは「常識破り」と言われたが、私は無我夢中で務めを果たした 。
前夜祭の夜、殿下を囲んで料亭で高知独特の座敷遊び「菊回し」を楽しんだ 。お猪口に菊が入っていた人が酒を飲む遊びだが、なんと橋本大二郎知事が引き当ててしまった 。知事は「酒は飲めない」と公言していたが、殿下の前では通用しない 。苦笑いしながら杯を干す知事の姿を、殿下は満面の笑みで眺めておられた 。その気さくなお人柄に、私は深い感銘を受けた。
その一方で、私はフィリピンに残された「日系人」たちの支援にも奔走していた 。戦後、日本人男性が強制帰国させられた際、取り残された現地妻と子供たちは「敵国の子」として非難され、山中に隠れるように生活していたのである 。
2代目日系人協会会長のカルロス寺岡さんは、日本語が完璧な紳士だった 。私は彼を大使館に紹介し、日系人の救援活動や、彼がバギオの名誉総領事に就任する契機を作った 。寺岡さんは自分の広大な農場に、日本へ出稼ぎに行く日系人たちのための訓練施設まで建設し、身を粉にして同胞のために尽くしていた 。
シスター海野という女性の存在も忘れてはならない 。彼女は静岡県の教師を辞めてフィリピンに渡り、山中に逃げた日系人を一軒一軒訪ね歩いて救済した「バギオの聖母」のような人だった 。
彼らが一様に口にしていたのは、「日本は必ず立派な国として復活する」という確信だった 。青年海外協力隊員として私たちが派遣された時、彼らは「それ見たことか、日本は一流国になったんだ」と涙を流して喜んだという 。私たちの存在そのものが、彼らの戦後数十年間の肩身の狭い思いを晴らす救いになっていたのだ 。その重みを思うたびに、私は身の引き締まる思いがした。
第10回:アトックの山に咲く「平和の桜」
2015年、高知県とベンゲット州の姉妹交流は40周年を迎えた 。私は、これまでの人的交流を形あるものとして次世代に残したいと考え、一つのプロジェクトを立ち上げた 。
「ベンゲットの山に、日本の桜を植えよう」
桜は日本では平和の象徴である 。たとえ私たちがこの世を去っても、桜の花が咲き続ければ、私たちの「平和を望む気持ち」を伝え続けることができると考えたからだ 。
適地を探していた私に、かつて須崎で3年間実習をしていたP・J・ハイツ君が名乗り出てくれた 。彼の一族はアトック町随一の地主であり、標高2,400mという桜に最適な冷涼な土地を「姉妹交流公園」として無償で提供してくれたのである 。
募金で集まった資金で、「せんだいや」と「雪割桜」の苗木200本を購入した 。検疫の壁は高く、一度は病気で不合格となったが、牧野植物園の方々の協力を得て、ついに2015年11月、29名の訪問団と共に苗木をフィリピンへ運び込んだ 。
2016年6月6日、霧に包まれたアトックの山頂で、盛大な植樹祭が行われた 。その場には、静岡から駆けつけた戦争遺児の亀井亘さんの姿もあった 。亀井さんは、かつてこの地で戦死した父親の鎮魂のため、私から分けた苗木を「山下大将が降伏を決意した地」に植えるために来ていたのだ 。
翌年、奇跡的に最初の桜が花を咲かせた 。薄紅色の小さな花びらが、かつて激戦地だった山肌に舞う姿は、言葉にできないほど神聖なものだった 。SNSでその噂は広まり、今では何万人ものフィリピン人が、この「ベンゲットの桜」を見ようと押し寄せている 。
「お前ほど協力隊生活を楽しんでいる者はいない」
かつて隊員仲間に言われたその言葉の答えを、私は今、アトックの山頂で見つけた気がする 。23歳の時にバターンの地で誓った慰霊の祈りは、58年の時を経て、満開の桜となってフィリピンの風に揺れている 。
私はこれからも高知の地で、海を越えてやってくる若者たちを迎え続けるだろう 。一冊の本から始まった私の旅は、まだ終わらない 。桜の木が根を張るように、高知とベンゲットの絆が、永遠に枯れることなく咲き誇ることを願って。
第11回:50周年の祝典 — 響き合う高知とベンゲット —
2025年7月、高知の夏の日差しが照りつける中、ベンゲット州から州知事を筆頭とする記念訪問団が来県しました。1975年7月27日、当時の溝渕増巳知事とベン・パレスピス州知事が署名を交わしてから、ちょうど50年 。かつて私が橋渡しをしたあの日の光景が、時を超えて鮮やかによみがえりました 。
滞在中、訪問団は県内の先進農家で汗を流す自国の実習生たちと再会し、彼らがミョウガやニラ、文旦、大葉、花卉栽培の下支えとして、高知県農業に不可欠な「社会インフラ」となっている姿を目の当たりにしました 。夜の懇親会では、土佐の皿鉢料理を囲み、言葉の壁を越えて「ファーストネーム」で呼び合う深い交流が繰り広げられました 。
その半年後の11月、今度は高知県知事、県議会議長、そして多くの県議会議員を含む大規模な訪問団が、お返しとしてベンゲット州を訪れました。一行が向かったのは、標高2,400mのアトック町パオアイ村にある「高知県・ベンゲット州姉妹交流公園」です 。
そこには、2016年に私たちが祈りを込めて植えた「せんだいや」と「雪割桜」が、逞しく根を張っていました 。かつては反日感情に揺れたこの地で、今では両国の知事が手を取り合い、平和の象徴である桜を見上げている。その光景は、戦後22年目に一人の協力隊員としてこの地に足を踏み入れた私にとって、筆舌に尽くしがたい感動の瞬間でした 。
この50周年記念事業を通じて、私たちは改めて確認しました。姉妹交流とは単なる行政の形式ではなく、土にまみれて働く農業実習生や、それを支える農家、そして平和を願う両国民の一人ひとりが積み上げてきた「魂の交流」であるということを 。
50年前、一通の成案から始まったこの絆は、今や1,000人近い帰国実習生という大きな財産を生み出しています 。彼らが日本で学んだ知恵と経験、そして自ら得た資金は、ベンゲット州の未来を切り拓く原動力となっています 。
「絆は未来へ移る」 。この50周年を新たな出発点として、高知とベンゲットの物語は、次なる半世紀へと語り継がれていくのです。